養蚕信仰について
鷺宮 咲前神社
宮司 和田 雅之
1.はじめに
(1)ぐんま絹遺産 咲前神社本殿、附絹笠神社、神楽殿、根子石、太々神楽
私の奉仕する咲前神社は、上野国一之宮貫前神社の前身とされる神社で、貫前神社の先の宮、前の宮から鷺宮の地名の由来となっています。御創建は、第27代安閑天皇元年甲寅(531)とされ、『上野国神名帳』には「碓氷郡 従五位上 咲前明神(一宮本)」と記載されています。
また咲前神社本殿は、棟梁・吉田忠蔵、彫工・石原兼次郎により、明治12(1879)年に上棟しています。
主祭神は健経津主命(たけみことふつぬしのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)、保食命(うけもちのみこと)の三柱で、健経津主命は武運必勝、開運厄除、健康、病気平癒の御神徳、大己貴命は家運隆昌、福徳円満、保食命は五穀豊穣、養蚕繁盛、子育安産の御神徳があります。
中でも保食命は、養蚕農家に信仰の対象とされ、特別に「境内社 絹笠神社」として一宇を設けて祀られています。神社拝殿の南北には「根子石(ねこいし)」と呼ばれる巨石があり、かつては願掛けに小石を載せて拝み、持ち帰ってから神棚や蚕室に置いて、ネズミ除けを祈願しました。ねこいしが、猫を連想させるからです。更には効果をあげるため、境内の杉の洞(うろ)に住む白蛇「長虫様(ながむしさま)」の御影のお札を蚕室に祀りました。
根子石
根子石
長虫様
(2)春祭と市
毎年4月1日が春祭・例大祭の日で、縁日として「一の市」が開かれ、かつては桑の苗や養蚕具、農具等も売られ、祭の時に買うと縁起が良く、繁盛すると多くの人がお参りしました。つづいて4月19日「二の市」、4月28日「三の市」と春に三度も、市が開かれています。
最近は、その3回の市(露店市)に「絹市」と称し繭からの糸取りである「上州座繰り」の実演、碓氷製糸(株)の絹製品展示販売、桐生織小物・龍匠錦の展示販売なども行い、往事の養蚕に関わる市に近づけるように努めています。
また4月1日は、五穀豊穣、養蚕繁盛を祈り、終日「鷺宮太々神楽(さぎのみやだいだいかぐら)」(安中市重要無形文化財)が奉納されます。
神楽が始められたのが、江戸時代の文化2(1805)年もしくは文化12(1815)年とされていますので、ちょうど当地方でも養蚕が盛んとなり農家が豊かになってきた頃かと思います。
これらは平成27(2015)年2月2日に『ぐんま絹遺産』として登録されました。
2.養蚕のはじまりと日本の神々
(1)養蚕の歴史
養蚕業を定義すると、蚕(カイコガ)を育て蛹(さなぎ)となる際に蚕の吐き出した糸で作られる繭から、生糸や絹にする産業といえましょう。
その歴史は5000~6000年前に遡り、中国黄河や揚子江流域で野生の蛾であるクワコを家畜化したのが始まりのようです。
日本では、北部九州・福岡県へ弥生時代中期頃に稲作の伝播と共に養蚕技術が伝わりました。日本最古の絹が福岡県・有田遺跡で発見されています。
また3世紀『魏志倭人伝』には、日本の養蚕についての記述や卑弥呼が絹織物を魏に献上したことが記載されています。
(2)日本の神々と養蚕
日本人のいにしえからの記憶は、『古事記』『日本書紀』に記されていますが、イザナギノミコト、イザナミノミコトの国土作りに始まり、森羅万象のことが神々により生み出されています。
蚕も例外ではありません。記紀では様々な別伝が述べられていますが、『日本書紀』では保食神の体から五穀が生じ、「眉の上に蠒(かひこ)生れり」と記され、蚕が生み出されています。
蚕も例外ではありません。記紀では様々な別伝が述べられていますが、『日本書紀』では保食神の体から五穀が生じ、「眉の上に蠒(かひこ)生れり」と記され、蚕が生み出されています。
また伊弉冉尊(いざなみのみこと)は火の神軻遭突智を生んで死んでしまいますが、最後の床で生むのが土の神、埴山姫(はにやまひめ)と水の神、罔象女(みずはのめ)であり、軻遭突智と埴山姫の間に生まれたのが稚産霊神であり、稚産霊神(わくむすびのかみ)の頭の上に蚕と桑が生まれたとされます。『古事記』では、大気津比売神(おおげつひめ)の頭に蚕が生じています。
保食神(うけもちのかみ)
日本書紀 巻1 神代 上 第5段 一書
【訓読文】
「既にして天照大神、天上に在しまして曰はく、「葦原中国に保食神有りと聞く。爾、月夜見尊、就きて候よ」とのたまふ。月夜見尊、勅(みことのり)を受けて降ります。已(すでに)に保食神の許に到(いた)りたまふ。保食神、乃ち首(かうべ)を廻(めぐ)らして国に嚮(むか)ひしかば、口より飯(いひ)出づ。又海原に嚮(むか)ひしかば、鰭(はた)の広(ひろもの)・鰭の狭(さもの)、亦口より出づ。又山に嚮(むか)ひしかば、毛の麁(あらもの)・毛の柔(にこもの)、亦口より出づ。夫(そ)の品(くさぐさ)の物悉(ものふつく)に備(そな)へて、百(ももとりの)机(つくえ)に貯(あさ)へて饗(みあへ)たてまつる。是(こ)の時に、月夜見尊、忿然(いか)り作色(おもほてり)して曰(のたま)はく、穢(けがらは)しきかな、鄙(いや)しきかな、寧(いづくに)ぞ口より吐(たぐ)れる物を以(も)て、敢(あ)へて我に養(あ)ふべけむ」とのたまひて、廻(すなわ)ち剣を抜きて。撃(う)ち殺しつ。然して後に、復命して、具に其の事を言したまふ。時に天照大神、怒りますこと甚しくして曰はく、「汝は是悪しき神なり。相見じ」とのたまひて、乃ち月夜見命と、一日一夜隔て離れて住みたまふ。是の後に、天照大神、復(また)天熊人を遣(つかは)して往(ゆ)きて看(み)しめたまふ。是の時に保食神、実に已に死(まか)れり。唯(ただ)し其の神の頂(いただき)に牛馬(うしうま)化為(な)る有り。顱(ひたひ)の上に粟生(あはな)れり。眉の上に蠒(かひこ)生れり。眼の中に稗(ひえ)生れり。腹の中に稲生まれり。陰(ほと)に麦及び大小豆(まめあづき)生れり。天熊人、悉(ふつく)に取り持ち去(ゆ)きて奉進(たてまつ)る。時に、天照大神喜びて曰(のたま)はく、「是の物は、顕見(うつ)しき蒼生(あおひとくさ)の、食(くら)ひて活くべきものなり。」とのたまひて、粟稗麥豆を以ては、陸田種子(はたけつもの)とす。稲を以ては水田種子(たなつもの)とす。又因りて天邑君を定む。則ち其の稲種を以て、始めて天狭田及び長田をに殖う。其の秋の垂穎(たりほ)、八握(やつかほ)に莫然(しな)ひて甚だ快(こころよ)し。又口の裏に蠒(かひこ)を含みて、便ち糸抽くこと得たり。此より始めて養蚕の道有り。保食神、此をば宇氣母知能加微と云ふ。顯見蒼生、此をば宇都志枳阿烏比等久佐と云う。
日本書紀 巻1 神代上 第5段 一書第11
【原文】
「卽而天照大神、在二天上一曰、聞三原中國有二保食神一。宜爾月夜見尊、就候之。月夜見命、受レ勅而降。已到二于保食神一。保食神、乃廻レ首嚮レ國、則自レ口出。又嚮レ海、則鰭狹亦自レ口出。嚮レ山、則毛麁毛柔亦自レ口出。夫品物悉備、貯二之百机一而饗之。是時、月夜見尊、忿然作色曰、穢哉、鄙矣、寧可下以二口吐之物一、敢養上レ我乎、廻抜劔撃殺。然後、復命、具言二其事一。時天照大神、怒甚之曰、汝是惡神。不レ須二相見一、乃與二月夜見尊一、一日一夜、隔離而住。是後、天照大神、復遣二天熊人一往看之。是時、保食神實已死矣。唯有三其神之頂、化二爲牛馬一。顱上生レ粟。眉上生レ蠒。眼中生レ稗。腹中生レ稻。見蒼生、可二食而活一之也、乃以二粟稗麥豆一、爲二陸田種子一。以レ稻爲二水田種子一。又因定二天邑君一。卽以二其稻種一、始殖二于天狹田及長田一。其秋垂穎、八握莫莫然、甚快也。又口裏含レ蠒、便レ抽レ絲。自此始有養蠶之道焉。保食神、此云二宇氣母知能加微一。顯見蒼生、此云二宇都志枳阿烏比等久佐一。」
大気津比売神(おおげつひめ)
古事記 上つ巻 須佐の男の命 蚕と穀物の種
【現代文】
「また、(須佐之男命は)食物を大気津比売神に要求した。すると大気都比売は鼻・口と尻から種々の美味しい物を取り出して、種々に作って用意して奉ろうとした時に、速須佐之男命は、その様子を伺っていて、汚くして差し上げるのだと思い、それでその大宜津比売神を殺してしまった。そうして、殺された神の身に生じた物として、頭に蚕が生じ、二つの目には稲種が生じ、二つの耳には粟が生じ、鼻には小豆が生じ、陰部には麦が生じ、尻には大豆が生じた。そこで、神産巣日御祖命は、この(大気都比売神の体に)生じた種を取らせた。」
【訓読文】
「また食物を大気都比売の神に乞ひたまひき。ここに大気都比売、鼻口また尻より、種々の味物を取り出でて、種々作り具へて進る時に、速須佐の男の命、その態を立ち伺ひて、穢汚くして奉るとおもほして、その大気都比売の神を殺したまひき。かれ殺さえましし神の身に生れる物は、頭に蚕生り、二つの目に稲種生り、二つの耳に粟生り、鼻に小豆生り、陰に麦生り、尻に大豆生りき。かれここに神産巣日御祖の命、こを取らしめて、種と成したまひき。」
稚産霊神(わくむすびのかみ)
日本書紀 巻1 神代 上 第5段 一書
【訓読文】
「次に火の神、軻遇突智(かぐつち)を生む。時に伊弉冉尊、軻遇突智が為に焦かれて終りましぬ。其の終りまさむとする間に、臥しながら土神埴山姬(はにやまびめ)及び水神罔象女(みつはのめ)を生む。卽ち軻遇突智、埴山姬を娶きて、稚産靈を生む、此の神の頭の上に蠶と桑生れり、臍の中に五穀生れり。罔象、此をば美都波(みつは)と云ふ。」
「また食物を大気都比売の神に乞ひたまひき。ここに大気都比売、鼻口また尻より、種々の味物を取り出でて、種々作り具へて進る時に、速須佐の男の命、その態を立ち伺ひて、穢汚くして奉るとおもほして、その大気都比売の神を殺したまひき。かれ殺さえましし神の身に生れる物は、頭に蚕生り、二つの目に稲種生り、二つの耳に粟生り、鼻に小豆生り、陰に麦生り、尻に大豆生りき。かれここに神産巣日御祖の命、こを取らしめて、種と成したまひき。」
稚産霊神(わくむすびのかみ)
日本書紀 巻1 神代 上 第5段 一書
【訓読文】
「次に火の神、軻遇突智(かぐつち)を生む。時に伊弉冉尊、軻遇突智が為に焦かれて終りましぬ。其の終りまさむとする間に、臥しながら土神埴山姬(はにやまびめ)及び水神罔象女(みつはのめ)を生む。卽ち軻遇突智、埴山姬を娶きて、稚産靈を生む、此の神の頭の上に蠶と桑生れり、臍の中に五穀生れり。罔象、此をば美都波(みつは)と云ふ。」
「次生火神軻遇突智、時伊弉冉尊、爲軻遇突智、所焦而終矣。其且終之間、臥生土神埴山姬及水神罔象女。卽軻遇突智、娶埴山姬、生稚産靈、此神頭上生蠶與桑、臍中生五穀。罔象、此云美都波。」
(3)秦氏と木嶋坐天照御魂神社
古代において養蚕はもとより、多くの殖産業を組織的に担ってきたのが、大和国や山背国で活躍する秦氏一族である。
『日本書紀』によれば、応神天皇の時代に百済から弓月君(ゆづきのきみ)が120県の民を引き連れ、帰化したと伝える。雄略天皇時代には、天皇の信頼を得ていた秦酒公(はたのさけぎみ)が各地にいた秦の民を集め任された。秦酒公は庸、調の絹と縑(かとり)を朝廷にうずたかく積んで献上した。それにより「禹豆麻佐(うずまさ)」という姓を賜わった。
本拠地の山背国葛野郡は現在の京都市右京区太秦(うずまさ)であり、大いなる秦氏を意味している。この地は、秦氏発祥地の一つとされ、その中心に延喜式内社、木嶋坐天照御魂(このしまにますあまてるみたま)神社が鎮座する。御祭神は現在、天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)、大国魂(おおくにたま)神、穂々出見(ほほでみ)命、鵜茅葺不合(うがやふきおえず)命が祀られている。御鎮座は、推古天皇の頃かとされている。
同神社には、境内社に蠶蚕(こかい)神社があり、本社も通称「木嶋神社」、「蚕の社」と呼ばれ西陣を始め、織物業の人に信仰されてきた。また湧水「元糺(もとただす)の池」と称される神泉があり、古くから祈雨の神としても信仰されてきた。
『日本書紀』によれば、応神天皇の時代に百済から弓月君(ゆづきのきみ)が120県の民を引き連れ、帰化したと伝える。雄略天皇時代には、天皇の信頼を得ていた秦酒公(はたのさけぎみ)が各地にいた秦の民を集め任された。秦酒公は庸、調の絹と縑(かとり)を朝廷にうずたかく積んで献上した。それにより「禹豆麻佐(うずまさ)」という姓を賜わった。
本拠地の山背国葛野郡は現在の京都市右京区太秦(うずまさ)であり、大いなる秦氏を意味している。この地は、秦氏発祥地の一つとされ、その中心に延喜式内社、木嶋坐天照御魂(このしまにますあまてるみたま)神社が鎮座する。御祭神は現在、天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)、大国魂(おおくにたま)神、穂々出見(ほほでみ)命、鵜茅葺不合(うがやふきおえず)命が祀られている。御鎮座は、推古天皇の頃かとされている。
同神社には、境内社に蠶蚕(こかい)神社があり、本社も通称「木嶋神社」、「蚕の社」と呼ばれ西陣を始め、織物業の人に信仰されてきた。また湧水「元糺(もとただす)の池」と称される神泉があり、古くから祈雨の神としても信仰されてきた。
3.養蚕信仰とその対象
(1)近世以前の養蚕に対する信仰
延長5(927)年成立の「延喜式神名帳」に蠶養國(こがいくに)神社が見られる。鎮座地は陸奥国会津郡(福島県会津若松市蚕養町)で、弘仁2(811)年に鎮座。御祭神は、保食大神(うけもちのおおかみ)、稚産霊大神(わくむすびのおおがみ)、天照大御神(あまてらすおおみかみ)である。
平安京遷都が延暦13(794)年で、延暦15(796)年に、相模、近江、丹波、但馬等の国の婦女各2名を陸奥国に派遣し、二年間蚕桑を指導させた記事があり、秦氏の力で、養蚕業の生産力増強を計り、その守護を祈り同神社が創建されたとも思われる。
この後、近世まで律令体制が崩壊により、官の独占であった蚕糸絹業は、生産力が下降し、有力者による生産と輸入に頼っていくこととなる。
平安京遷都が延暦13(794)年で、延暦15(796)年に、相模、近江、丹波、但馬等の国の婦女各2名を陸奥国に派遣し、二年間蚕桑を指導させた記事があり、秦氏の力で、養蚕業の生産力増強を計り、その守護を祈り同神社が創建されたとも思われる。
この後、近世まで律令体制が崩壊により、官の独占であった蚕糸絹業は、生産力が下降し、有力者による生産と輸入に頼っていくこととなる。
(2)近世以降の養蚕業の隆盛
江戸幕府が成立して、世の中が落ち着くと外貨流出防止の為、生糸織物の輸入削減、国内での養蚕、生糸、織物生産が奨励された。国内の生糸生産量が再び増加した。養蚕業も畿内中心から、関東、東北地方に拡大し、絹織物も西陣だけでなく桐生織もその戦列に加わった。
(3)近世の養蚕信仰
特に近世以降、今の群馬県、長野県、福島県の地域の農家では、養蚕が短期間で大きな収入を得られる生業で、その成否が一家の盛衰に多大な影響を及ぼすようになった。それに伴い、養蚕の技術書が多く出版され、養蚕繁盛をいのる信仰が高まっていった。
群馬県を例にすると、伊勢崎市間野谷町・稲荷神社境内に祀られている、元禄10(1697)年銘の「四ツ手庚申」が養蚕信仰対象として一番古いかたちです。
群馬県内で養蚕信仰の代表的なものとしては、以下の信仰形態があります。
群馬県を例にすると、伊勢崎市間野谷町・稲荷神社境内に祀られている、元禄10(1697)年銘の「四ツ手庚申」が養蚕信仰対象として一番古いかたちです。
群馬県内で養蚕信仰の代表的なものとしては、以下の信仰形態があります。
- 蚕影(こかげ)信仰
茨城県つくば市神郡1998鎮座「蠶影神社」を総本社とする。「日本一社」
【御祭神】稚産霊神 埴山姫命 木花開耶姫命
別当・蚕影山桑林寺の活動により縁起書「金色姫伝説」を普及、関東地方を中心に広く信仰される。 - 絹笠信仰
茨城県神栖市日川720 蚕霊(さんれい)神社 「日本養蚕事始」
【御祭神】大気津比売神
茨城県神栖市日川900 蚕霊山千手院星福寺
【御本尊】馬鳴菩薩(蚕霊尊)
文政10(1827)年滝沢馬琴が画賛に「衣襲明神」と描いた御影頒布で、養蚕信仰が大いに広まった。明治維新後の神仏分離政策で、現在、神社と寺院で祀られているが元は一体であった。 - 民間信仰(オシラサンなど)
各地神社仏閣で養蚕守護の護符を受け神棚にお祀りしたり、各農家での信仰があります。多義に渡ります。
関東では、オシラサン信仰という民間信仰があります。東北でのオシラサンとは違った信仰形態で、養蚕信仰に特化しています。 - 馬鳴菩薩信仰
馬鳴菩薩は、天竺(インド)から伝わった蚕神とされ、貧者に衣服を施す仏として信仰された。一面六臂の像で、秤、糸枠、糸、織物などを持ち、白馬に乗り、従者を連れた姿で描かれる。近世末の養蚕信仰では、蚕神の具体的なお姿として取り入れられている。寺院における養蚕信仰では蚕神の本尊として、本堂などに安置されている。
4.おわりに
養蚕信仰は、近世から近代、現代へと300年以上に渡って、養蚕業と共に続いてきた。奉仕する咲前神社の宮司としては、細々でもこの信仰を守り続けていきたいと思っています。それと共に日本の養蚕業を祈りを通じて、見守っていきたいと考える次第です。
【参考文献】
- 『古事記』倉野憲司校注(岩波書店/昭和58(1983)年第27刷)
- 『日本書紀(一)』坂本太郎他校注(岩波書店/平成7(1995)年第3刷)
- 『日本書紀(上)全現代語訳』宇治谷孟(講談社/1989第55刷)
- 『養蚕の起源と古代絹』布目順郎(雄山閣/昭和55(1980)年2版)
- 『蚕生糸を吐く虫と日本人』畑中章宏(晶文社/平成27(2015)年初版)
- 『秦氏とその民』加藤謙吉(白水社/平成17(2005)年第4刷)
- 『養蚕の神々―繭の郷で育まれた信仰―』(安中市ふるさと学習館/平成16(2004)年初版)
- 『養蠶の神々―蚕神信仰の民俗―』阪本英一(群馬県文化事業振興会/平成20(2008)年第2刷)
- 『群馬県蚕神総合調査報告書 群馬の蚕神』(富岡製糸場世界遺産伝道師協会/平成30(2018)年)